2009年02月20日

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2008年10月20日

第12回セミナー:斎藤貴男氏講演

フォーラムin札幌時計台 第12回 斎藤貴男講演会(10月2日)

 中国海軍潜水艦が起こした事故について読売新聞記者に情報を流したとして、自衛隊 は今日(二日)、自衛官を懲戒免職にしてしまいました。まだ刑事事件の判決がでていないにもかかわらずクビにしてしまった。とんでもないことです。記者が自由に取材できなくなります。内部告発を進めようという動きの裏でこういうことをされると、組織でおかしなことがあっても、公務員が世に問うことができなくなります。
 
 このままだと戦時中のように大本営発表のみを報道することになる。国の権力者側が 伝えたいことだけが報道され、問題がある部分は闇に葬られる。権力を持っている人はいつもそうしたいんです。

 日本は戦争と格差、差別を原動力とする国を志向しています。勤労人口の35%がパートや派遣の非正規雇用で、フルタイム同士で比べると、非正規雇用は正規雇用の賃金の60%しかもらっていないというデータもある。定期賃上げや退職金の金額を考えるとますます差は大きくなっていく。

 非正規雇用者は労働者の権利が守られない。けがをしても救急車を呼んでももらえない。セクハラの対象にもなりやすい。社会の構造が大きく変わったことが背景にあります。

 国内の会社は人件費の安い海外に工場を移しました。一九九五年、旧日経連は「経済がだめになったのは人件費が高くなりすぎたからだ。雇用柔軟型を取り入れるべきだ」とまとめ、リストラを勧めた。人件費を原因にする前にバブルの放漫経営が指摘されないとならなかった。企業はバブルでもうかったカネを不動産につぎ込んでしまった。まずは経営者自身が責任を認め、辞職すべきだったのにリストラや雇いたいときだけ雇うという非正規雇用を進めた。政府も法整備で後押ししてきたのです。

 最近、経営者たちから「将来は非正規雇用が70~80%になると思う」と言われる。ほんの一部のエリートか専門職以外はみんな非正規となり、ワーキングプアとなる。「名ばかり管理職」といわれるように正規雇用の人も安泰ではありません。

 教育や福祉、あらゆる分野で格差は広がっている。

 金融・経財相だった竹中平蔵氏は「努力した者が報われる社会にしたい」と言っていたが、競争はスタートラインが同じでなければならない。父や祖父が首相だったという人もおり、就職活動しなくても企業に入れ、議員になり、われわれに規範意識をとく。 今の首相も元首相の孫です。例えば彼らが百メートル走でゴールの一歩手前からスタートするのに対し、孤児は百歩後ろからスタートしなければならない。「競争」が成立する環境にない。閣僚の失言が相次ぐのも、社会的地域の高い人たちがほかの人たちを見下すようになっている現れではないか。

 格差と戦争もつながっています。米国と同様に、貧しい若者が自衛隊に志願しないと生きていけない社会になりつつある。

 報道のあり方を考える必要があります。テレビは北京五輪にまつわる報道で、中国のあらゆるところに監視カメラがあることについて「監視社会」として批判していました。その一方で、日本でまったく同じことが行われているのに日本では「防犯カメラ」と いう名で報じている。ダブルスタンダードじゃないですか。防犯のためには見られてもいいというような風になってはいけない。

 秋葉原の無差別殺傷事件の容疑者は派遣労働者で抑圧されていた。私はある地方新聞にコメントを求められ「今の構造改革を続けている限り、私たちは何度も再発におびえなければならない」としたが「容疑者の犯行を正当化してしまう」と掲載されなかった。容疑者は悪いが社会が追いつめた。関係ないということはないんです。メディアはもっと踏み込んでほしいと思います。   

Posted by jyam at 17:14Comments(0)TrackBack(0)講演要旨

2008年10月18日

第13回セミナー:森達也氏講演

フォーラムin札幌時計台 第13回 森達也講演会(10月15日)

 一九九五年に地下鉄サリン事件が起きた当時、テレビはオウム真理教一色で毎日特番が放送されるという日々でした。当時は制作会社の契約ディレクターで、オウムの仕事をやらないと仕事がないという状態になり、青山の総本部に取材に通いました。

 ところが、坂本堤弁護士一家殺人事件の直前、TBSが弁護士のインタビュー未放映映像をオウム真理教の幹部に見せていた問題が発覚。信者を中心に取材していた僕の企画は危険だと思われ、撮影中止を命じられ、さらには契約も解除されます。別の局で使ってくれるだろうと思って一人で撮影を続けたが甘かった。どこにも「無理」と断られ、結果的に映画「A」になったんです。国際的には評価されたのですが、国内ではかんばしくありませんでした。

 なぜでしょうか。僕が映しだした信者が僕たち以上に善良で優しかったからです。視聴者は、信者が「あちら側」で異質と信じたい。信者が普通であれば、自分たちと境界がなくなってしまう。もしそれを裏切る放映をすれば、たちまち抗議がきて、スポンサーがおりるかもしれない。だからほかのメディアは信者を「凶悪」か「洗脳されてロボットになった人」であると報道したのです。

 僕たちが考えなければならなかったのは「どうして優しい人たちが事件を起こしたのか」ということだった。なのにこの事件をきっかけに、「悪いやつはより悪くする」という風潮になってしまった。その結果、不安や恐怖を刺激し、国歌国旗法や住民基本台
帳ネットワークにつながった。怖いから武器を持ちたい。個人で持てないから国が持てばいいと改憲ムードがでてきた。「洞爺湖サミットが近いから」と東京で図書館の返却ポストが閉鎖されるような事態になり、お巡りさんが増えた。

 治安は良くなってるんですよ。昨年一年間の殺人の認知件数(未遂含む)は千百九十九件と戦後最も少なかった。一番多かったのは一九五四年の三千八十一人です。実際に殺人で死亡した人数は六百か七百。水難での死亡は7百人前後らしいですから、水難で死ぬ人の方が多いともいえる。メディアも報じないし、警察も発表しない。世の中が不安である方が、セキュリティー業界が花盛りになるからです。業界は警察の天下先ですからね。

 政治家にとっても恐怖の方が統治しやすい。メディアも「怖い」「危ない」と危機を煽る方が視聴率がとれる。お化け屋敷がどうして怖いか。通路が怖いんです。どこから出てくるかわからないから。見えないから怖い。ならば形にすればいい。この思いが仮想敵国を作る。愛する者を守るために攻撃する。正当防衛として先に撃つ。こうして戦争が起こる。自分たちは防衛戦争のつもりでも、はたから見ると侵略です。悪ではない。愛する者を守りたいという「善」が大量に人を殺すんです。愛と正義が原因のとき、虐殺が起こる。オウムと同じです。

 恐怖があおられた結果、十三年前からまったく変わってしまった。「警戒中」の看板がそこら中にかかっていても違和感がない。小学生に衛星利用測位システム(GPS)付きの運動靴を履かせる。人は慣れやすく、変と思うことにアラームが鳴らなくなっている。変わったことに気づかない。救いがないです。

 三年前にモンゴルに行きました。案内役の女性が、市場の人込みの中で手を握ってきた。彼女は「習慣よ」と言った。見るとそこら中で見知らぬ人たちが手を握っている。ぶつかったり、足を踏んだりしたら手を握る。それがケンカを避ける手段ということで
した。ささいなことだが人は手を握りあうことで劇的に変わる。メディアも政治も決めているのは僕たちです。ささいなことで、世の中は変わるかもしれない。  

Posted by jyam at 22:28Comments(0)TrackBack(0)講演要旨

2008年07月04日

『政治を語る言葉—札幌時計台レッスン』出版のお知らせ

政治を語る言葉—札幌時計台レッスン
政治を語る言葉—札幌時計台レッスン
山口 二郎 (著), 中島 岳志 (著), 辛 淑玉 (著), 香山 リカ (著), 佐藤 優 (著)

 
私たちは、日々、政治の問題に向き合わざるをえないのに、政治への関心を外に表すことは妙に難しい。でも、何か前向きになれるきっかけやヒントが得られれば、私たちはもっと本気で考え、語り合うことができるのではないか・・・・・・。そして、二〇〇七年八月、学生・ボランティアスタッフの手に支えられ、市民の学びの場「フォーラムin札幌時計台」がスタートした。
(デモスノルテ 田中みどり)
  

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2008年05月22日

第9回セミナー:柄谷行人氏講演

フォーラムin札幌時計台 第9回 柄谷行人講演会

 フォーラムin札幌時計台、第9回は、思想家の柄谷行人氏を迎えて、5月21日に開催された。私は柄谷氏の作品の熱心な読者ではなかった。しかし、『世界共和国へ』(岩波新書、2006年)を読んで、思想の構えの大きさに感銘を受け、あらためて読み直そうと思った。昨年、東京で開いている研究会に講師としてきていただいた時に、札幌にもおいでくださるようお願いして、今回の講演が実現した。

 以下、柄谷氏の講演の要点である。
 柄谷氏の講演のテーマは、民主主義を支える土台としての個人と共同体(アソシエーション)である。日本においては、歴史的に見ても、中間団体、部分社会(ギルド、組合、宗教団体、自治都市)がほとんど存在しておらず、わずかにあったものも明治維新以降の近代化の中で解体された。その結果、権力に抗する拠点が存在せず、人々は中央集権的な支配体制に統合された。その意味での集権的支配と近代化は実に効率的であった。
 こうした特徴を、宮崎学は、独自の掟をもった自治的団体や部分社会の不在と呼ぶ。また、和辻哲郎は、『風土』の中で、自治的公共空間の不在を指摘していた。自らの生活を守るために、都市の公共的世界に関わっていくという機制が存在せず、家の中さえ平穏であれば外部の政治はどうでもよいという心理が蔓延した。
 中間団体や部分社会の不在こそ、日本の民主主義の脆弱性の最大の原因である。日本人は、食品の安全性や、家の周りの環境など、家の中に関わる問題が争点かすれば、自分の利益を守るために積極的に発言、行動する。しかし、それ以外の公共的問題については無関心である。
 この点は、欧米はもとより、中国と比べても、大きな違いである。ヨーロッパには、自治都市やギルド、教会など、自立的な中間団体の歴史がある。また、アメリカでも、宗教など個別社会はきわめて根強い。中国では、国家権力とは無関係の、縁戚集団や結社がある。王朝は変わっても、民衆のネットワークは持続する。これに比べて、日本の特に近代社会は、ローラーで均されたようなフラットな社会である。人々が政治的な主張をしないのは、ポストモダンの現象ではない。7月の洞爺湖サミットの際に、デモが1つも起こらないようでは、日本がいかに異質で、非民主的な社会かを世界に宣言するようなものである。
 丸山真男は、結社形成的−非結社形成的、求心的−遠心的の2つの軸を組み合わせて、個人析出の4つのパターンを類型化した。この図式は現在の日本にも当てはまる。結社形成的で求心的なモデルが、民主化である。このタイプの個人は集団的な政治行動に参加すると同時に、中央権力に統合される。結社形成的で遠心的なモデルが、自立化である。このタイプの個人は、権力からの自由を重視し、社会の中に自立的な集団を形成する。非結社形成的で遠心的なのは、私化(privatization)である。政治活動に挫折し、私的な世界に引きこもる。非結社形成的で求心的なのは、原子化(atomization)である。このタイプの個人は、公共的問題には無関心であるが、しばしば権力に動員され、これを翼賛する雪崩のような行動を起こす。
 日本の場合、中間団体、部分社会が存在しなかったため、私化、原子化が進んだ。そのことは近代化にとって効率的であったが、民主政治を脆弱にした。つい最近の小泉ブームも、原子化によって説明されるであろう。あの「改革」は、郵便局、労働組合など、日本にわずかに存在した部分社会を、既得権集団、抵抗勢力として切り捨てるものであった。大学も、そのような意味での改革の標的になっている。
 丸山は、近代主義者といわれているが、実は封建的なものを高く評価していた。封建的なものが、権力による画一化や統合への抵抗の拠点となりうるからであった。たとえば、学問の自由や大学の自治などというものも、近代的な人権というよりも、中世以来の大学の持っていた特権に由来している。特権があったからこそ、大学は批判の中心となり得たのである。
 現代では、専制者なき専制、独裁者なき独裁があり得る。市場主義による専制はその一例である。国民主権という建前や、代表民主主義という仕組みはあっても、市民は世論調査によって量られる数量に還元されてしまっている。
 民主主義を担う個人が必要なことは明らかだが、個人個人で頑張れば、民主主義を支える市民ができあがるというわけではない。個人が集団の所属することによって市民が形成されるのである。これから、多様な部分社会を造り出す努力を進めるべきである。

 以上が柄谷氏の講演の要点である。柄谷氏の話は、きわめて明快であり、思想家としての迫力を感じた。  

Posted by jyam at 23:45Comments(42)TrackBack(1)講演要旨

2008年05月21日

フォーラム in 札幌時計台 第3シリーズ 2008 秋

フォーラム in 札幌時計台
3rd Series 2008 AUTUMN

 下記の日程で第3シリーズが決まりました!チケットが売り切れる可能性もございますので、お早めにお買い求めください! 

「メディアのいま現在 −ニュースの深層を読み解くためのレッスン−」

<第10回> 8月18日(月)  17:00〜19:00
        講師:宮崎学(Miyazaki Manabu)作家
           大谷昭宏(Otani Akihiro) ジャーナリスト
           二木啓孝(Futatsuki Hirotaka) ジャーナリスト
           魚住昭(Uozumi Akira) ノンフィクション作家

<第11回> 9月12日(金)   18:30〜20:30
        講師:西山太吉(Nishiyama Takichi) 元毎日新聞記者


<第12回> 10月2日(木)  18:30〜20:30
        講師:斎藤貴男(Saito Takao) ジャーナリスト

<第13回> 10月15日(水)  18:30〜20:30
        講師:森 達也(Mori Tatsuya)  映画監督

<第14回> 11月28日(金)  18:00〜20:00
        講師:金平茂紀(Kanehira Shigeki) TBS報道局長

司会・コーディネート:山口二郎 北海道大学教授


● 会 場
第10回、14回    北海道大学百年記念会館 札幌市北区北9条西5丁目
第11回、12回、13回 札幌時計台ホール    札幌市中央区北1条西2丁目 
● 入場料/各回 1,000円
● チケット取り扱い所
北大生協会館店サービスカウンター(北区北8条西7丁目)
くすみ書房(西区琴似2条7−2−5 メシアニカビル1F)
大丸プレイガイド(中央区南1条西3丁目 大丸藤井セントラル内)
             ※チケットは2008年7月1日(火)より発売開始

主 催/デモスノルテ       HP/http://demosnorte.kitaguni.tv/
お問い合わせ/TEL(011)706−3140 (北海道大学法学部 山口研究室)

  

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2008年05月21日

第8回セミナー:上野千鶴子氏講演

フォーラムin札幌時計台 第8回講演
上野千鶴子 わたしのことはわたしが決める——自己統治という思想——

 フォーラム第8回は、上野千鶴子氏を迎えて、5月16日に開催された。上野氏と私は、2007年4月の東京都知事選挙で、浅野史郎氏を応援する集まりでご一緒して以来である。上野さんは、最近いくつかの自治体で、いわゆるジェンダーフリー・バッシングに巻き込まれ、言論の自由を脅かされている。自治体が主催する女性の権利や男女共同参画に関する講演会に、女性の権利に反対する集団から妨害が加えられ、講演が中止されるという事件が幾つも起こっている。しかし、上野さんは闘い続けている。この場を借りて、敬意を表し、また連帯の意思を伝えたい。

 私が上野さんを招いたのは、単にフェミニズムについて勉強したいからではなかった。以前に、上野さんが中西正司さんと共に著した『当事者主権』(岩波新書)という本を読んで、そこで上野さんが展開している話を政治学の方につなげられたらとずっと考えていたからである。この第2シリーズの統一テーマは、「民主主義の地平を広げる」である。少しでも多くの人が、市民としての権利を行使して、政治に対して発言、要求するようになってほしいという願いがその根底にある。
 しかし、現在の日本では、「弱者の自己責任」という逆の傾向が存在する。ワーキングプア、高齢者、シングル・マザー、過疎地の住民など、不利な立場におかれた人々が、自らの逆境を、社会の矛盾ではなく、自分の責任によると考え、その不利益を背負い込んでしまうという現象である。日本経団連など、力の強い者は自分たちの私益を臆面なく政策決定の空間に表出し、自分たちの私益が国民全体の公共利益だといって憚らない。逆に、弱い立場の人々は、本来社会全体の課題である問題についても、自分が悪いと思ってそれを抱え込み、個々バラバラに苦しむ。これが新自由主義時代の政治の構図である。
 したがって、今の日本で民主主義を活性化するためには、貧困や育児や介護の苦労は私一人が背負う私的問題ではないと声を上げることが不可欠である。そこで、上野さんのいう当事者主権という概念が、まさに弱者の自己責任という呪縛を打ち壊す有力な武器になると思えたのである。この講演を行うに当たって、私はこのような意図を伝えた。すると、上野さんは、私の期待に的確に応えてくれた。そのことに、何よりも感謝したい。

以下、上野さんの講演の要点を私なりにまとめてみる。

 世の中には様々な弱者がいる。もちろん、自ら弱者になりたいという人はいない。誰かが、ある種の状態にある人に対して、「弱者」という定義を与えるから、弱者は存在する。これらの人々が普通の権利の持ち主として社会に参画するためには、弱者自身が自らを定義することが必要となる。
 これと関連して、「自立」という言葉についても、定義の転換を図る必要がある。自立とは、依存のない状態を意味するのだろうか。そうした自立の定義自体、強者が行ったものである。誰かに依存していても、そのことを負い目に感じる必要はない。誰かに依存しなければ生きていけないならば、そのことを権利として主張できるように、自らを解放することが必要である。障害者の世界では、それが少しずつではあるが、積み上げられてきた。高齢者については、2000年の介護保険の実施が大きな転機となった。介護を受けることが権利として確立したのである。(後述するように、その仕組みは目下危機に直面しているが)。最近、サクセスフルエイジングなど、加齢による身体の衰弱を防ぐ方法が商品として注目されている。PPK(ピン、ピン、コロリ)なども同類である。しかし、所詮、それらは中年期を死の直前まで引き延ばすというむなしい試みでしかない。高齢化とは、多くの人々が障害を持って晩年を生きることを意味する。だとすると、その事実を受け容れ、他人に依存しながらも人間の尊厳を全うするという新しい自立の意味を見出すしかない。
 自己肯定の根拠が、元気で有能であることだけであれば、元気や能力を失ったとたんに人間は存在理由を失う。実際、そのような自己肯定をしてきた人ほど、何らかの理由で障害をおったり、年をとって弱ったりしたときに自己否定的になる。特に男にはその傾向が強い。

 当事者主権の当事者とは、他人にあてがわれるものではなく、自分で宣言するものであり、自らが自分のニーズの主人公になるということである。他人に依存せざるを得ない障害を持っていても、自分が自分の主人公として、自立するのが当事者である。
 介護や育児など、他人に依存せざるを得ない人をケアする作業は、きわめて広範に行われている。そこでは、片方だけが得をするということはあり得ない。片方を追いつめれば自分も苦しむ。逆に、両方とも幸福でなければ、育児も介護もできない。依存する側が当事者として、人間の尊厳を追求することの意義はそこからも理解されるであろう。

 依存を必要とする人々に対する福祉サービスの供給主体としては、政府(官)、市場(民)、市民セクター(協)の3種類がある。これらを組み合わせて、最適の共有システムを作ることが福祉ミックスである。市場と政府には明らかに限界がある。当事者が作り出す協セクターこそが重要である。日本では、福祉サービス供給にしめる協セクターの比率は、まだ10%程度でしかない。しかも、介護保険の後退に継ぐ後退で、協セクターの経営もかなりきつくなっている。
 制度を作るのは民主主義である。市民が当事者として制度を作り出すしかない。特に、地方レベルで市民が自らのニーズを主張して、制度を作り出さなければならない。最近、新自由主義的な地方分権が進み、中央政府の負担を自治体に転化する動きが進んだ。また、自治体が市民の力を安く使うために、指定管理者制度などが生まれた。しかし、動機は不純でも、よりよい結果を作り出すために利用できるものは何でも使えばよい。既存の政府が危機に陥っているからこそ、責任転嫁的な分権も進む。市民はそれを逆手にとって、少しでも住みやすい社会を作ればよい。そのためには、市民自ら政治に乗り出すこと、参加することが必要である。民主主義とは、4年に1回の選挙だけを意味するのではない。

 以上が上野氏の講演の要点である。次に、私との対談の中で興味深かった論点について、紹介しておきたい。Yは山口、Uは上野の発言要旨。

Y 若くて健康であることを正常と考え、衰え、他者に依存することを逸脱と考えるという人生観は、個人のみならず、日本の社会や経済の様々なレベルに浸潤している。最近、厚労省が言い出したメタボリックシンドロームの予防などは、個人レベルでの価値観の押し付けである。さらに、日本全体が人口減少局面に入り、量的経済発展のピークは過ぎたにもかかわらず、量的発展の夢を追い求める新自由主義も、国民経済レベルでの強壮幻想の現われであろう。
 また、依存を恥じる感覚は、自己責任のイデオロギーと表裏一体であるが、弱者が律儀に自己責任を引き受けるのに対して、強者は無責任で恥じないケースが多い。自分の趣味で銀行を設立した結果、300億円を超える損失を出しながら、税金で穴埋めして、何ら恥じるところのない石原慎太郎東京都知事など、その典型である。

U しかし、大半の男は、自分が弱るときのことを創造する能力を持っていない。山口さんだって、自分は逃げ切って、家族に世話してもらいながら先に死ぬつもりだろう。

Y 『お一人様の老後』を読んで、心構えをしているところです。(実際、私の父親も、お一人様の老後を迎えているが、それなりにやっている。)

Y 民主政治とは、あらゆる人が自分の利益、あえて言えばわがままを、政策決定の空間で主張するところから始まる。

U わがままというのはまずいのではないか。みんなが自分の利益を追求すれば、力の強いものの主張が通ることになるのは目に見えている。

Y わがままを一旦解禁するというのは、自己規制の呪縛を解くための戦術だ。他の人たちも自分と同じような要求を持っていることに気づけば、それは単なるわがままではなく、公共の利益に広がる。自分と同じ主張を他人がしたときにそれを許容できるかどうかが、わがままと権利主張を区別する試金石となる。

Y 改革という名の社会保障の削減で、お一人様の老後も安泰ではない。この点で、これからの戦略をどう考えるか。

U 市民自身が議会に入ることから始まる。議員の特権性をなくせば、ひとりでに女性議員は増えるはず。
 国全体の社会保障について言えば、財務省による社会保障費削減路線をとめることが絶対に必要で、そのためには国民で負担を増やすしかない。しかし、今の官の惨状を見れば、そうした合意を作ることも難しい。増税のためには大連立しかないとアメリカの学者に言われたが、どう思うか。

Y 民主党が社会民主主義路線を唱えて政権交代を起こし、ヨーロッパ流の福祉国家を建て直すというのは、あくまで理想論。実際にはそう簡単にはいかないだろう。自民党、民主党の良識派が協力して、福祉基盤の強化のために大連立をするというシナリオもありだろう。この点についてまじめに考えている政治家は、自民党の方にいるということを、残念ながら認めざるを得ない。
  

Posted by jyam at 12:29Comments(0)TrackBack(0)講演要旨

2008年04月10日

第7回セミナー:片山善博氏講演

フォーラムin札幌時計台 第7回 片山善博氏講演会 2008年4月5日

はじめに

 フォーラムin札幌時計台第7回は、前鳥取県知事で現在慶応義塾大学教授の片山善博氏を招いて、講演会を開いた。







 本論に入る前に、私と片山氏の縁について申し上げておきたい。片山氏と私はともに岡山の出身で、父親同士は教員で、私の父は片山氏の父上にずいぶんお世話になった。私は高校生のころから片山さんのことを聞かされてきており、「片山さんの息子さんは東大法学部を出て自治省(当時)に入った」とうらやましそうに言われたものである。その後私も東大法学部に入り、父親からは官僚になるようしつこく勧められたが、大した根拠もなく「官僚が日本を支配する時代はもうすぐ終わる」といって、学者の道に進んだ。その後、片山さんは鳥取県知事を二期務め、知事を勇退した後は慶應義塾大学法学部の教授に就任された。片山さんのほうが官僚に見切りをつけて、学者の世界に仲間入りされたわけである。いまや、官僚支配や中央集権に対して、最も厳しく、辛口の批判をされ、マスメディアに頻繁に登場している。片山さんの主張にふれるたびに、私は自分の進路選択が誤っていなかったという満足を感じるのである。

民主主義の不足がもたらした財政破綻−−−夕張市の教訓

 片山氏は、日本における民主主義と地方自治の不足について、具体的、体系的に語った。この十年ほど、地方分権が進んでいるといわれているが、実態はむしろ自治や民主主義が後退しているという危機感がこの講演の基調にあった。地方自治とは、人々が自分たちの地域の問題を自分たちで決めること、自治体が住民によって民主的にコントロールされているという意味であると片山氏は言う。

 しかし、最近そのような意味での自治が機能していない事例があちこちに見られる。北海道夕張市の財政破綻はその一例である。これは特定の市の問題ではなく、日本の自治体全体に通底する問題である。夕張市には、正規の市債とヤミの借金がそれぞれ300億円ほどあった。これだけの借金を作り出した執行部の責任はもちろん大きいが、議会の責任も大きいといわなければならない。表の市債が300億円ということは、10年償還として、毎年30億円ずつ償還するということである。夕張市の地方税と交付税交付金を合わせた歳入は1年約42−3億円であった。これで市の行政を運営することが無理なことくらい、誰にでも分る話である。また、ヤミの借金は、予算科目上は「諸収入」として計上されていたが、これが1年30億円程度あった。諸収入が30億円もあることの不自然さも、常識で分るはずである。議会は普通の常識があれば分ることを、漫然と放置したのである。

 議会の機能不全は夕張だけではなく、日本全体の問題である。地方議員は自らの使命(mission)を理解していないと言わなければならない。多くの議員は、市政、道政をスムーズに進めることを自らの役割と心得ている。また、市長、知事の与党として、執行部を守ることを自らの役割と任じている。こうした議会は八百長、学芸会である。議会とは、そもそも様々な議論を戦わせ、よりよい政策を見つける場である。議員や執行部の発言があらかじめ決まっている議会など、議会の名に値しない。議会が当然の疑問をぶつけていれば、夕張の破綻にしても、もっと早い段階で芽を摘むことができていたかもしれない。また、与党だから執行部の不正に目をつぶるというのは、本当の親切ではない。

 国や道にも責任はある。バブル崩壊直後の時期、国は自治体の尻をたたいて借金を奨励し、景気対策の公共事業を増加させた。その結果、自治体はしたくない事業をさせられる羽目になった。借金の償還に必要な財源は後で地方交付税によって面倒を見るという国の口車に乗った自治体も悪いが、国にも大きな責任がある。その後、それらの地方債の償還時期になっても、交付税は増えるどころか、減らされている。夕張市の破綻を契機に、国では自体の財政破綻防止法を作った。しかし、今までさんざんスピード違反を奨励しておいて、今頃自治体の行き過ぎをとがめるというのは、実におかしな話である。

 金融機関にも、自治体の債務についてはリスク感覚がないという問題があった。破綻を表明した夕張市にさらに貸し込んで職員のボーナスを払えるようにした銀行があった。それらの債権は優先債権として今後の再建の中で返済されることになっている。何の罪もない夕張市の子どもたちが行政サービスのカットで苦しむ一方、銀行が満額返済してもらえるというのも、不公正な話ではなかろうか。

 これからは、国や銀行のコントロールではなく、民主主義によって自治体の財政を規律する仕組みを考える必要がある。アメリカのように、公共事業財源のために起債をする場合住民投票を行うというのも一つの方法だろう。数十億円のお金をかけてそれだけの施設を作る必要があるかどうかを市民自身に問うことで、おのずと取捨選択や合理的な判断が働くであろう。また、自治体が地方税率をある程度自由に設定できるようにし、負担と受益についてそれぞれの自治体の住民自身で考えて決めるという仕組みも、これから必要となるだろう。自治体の運営を関係ない国の官僚に決めてもらうのではなく、住民自身で決めることこそ民主主義である。


道路特定財源をどう考えるか

 次に、今話題の道路特定財源問題について考えてみたい。この問題には、特定財源という仕組みを続けるべきかどうかという論点と、暫定税率を続けるべきかどうかという論点の2つがある。

 まず、前者の問題から見てみたい。そもそも財政には優先枠を設けるべきではない。様々な政策の中で総合的に優先順位をつけるのが財政というものである。国土交通省が音頭を取って知事や市長に特定財源制度の維持を訴えさせているのは、実に奇妙な話である。首長がそれほど「道路が必要だ」というなら、特定財源の縛りをはずしても自治体は道路に金を使い続けるはずである。つまりあのキャンペーンはそれ自体矛盾しているのである。自治体の首長が特定財源制度を維持してほしいというのは、政策に関する自由を放棄しているのと同じである。

 次に暫定税率の問題について考えてみたい。行政に携わる者が財源をほしいというのは当然である。しかし、負担する庶民の懐事情も考えるべきである。地方経済が疲弊している中で、公共交通機関が貧弱な地方ほど人々は通勤のために自動車を使わざるを得ない。実態として、地方の低所得者層ほど、ガソリン税をたくさん負担しているのである。

 環境負荷を考えるということであれば、揮発油税を他の使い道にまわすことも考えるべきであろうが、「民のかまど」を考えるのが政治だという原点を見失ってはならない。

 国会の予算審議を通して、道路特定財源の使い道に関する様々な無駄や腐敗が摘発された。ガソリン税が天下りの受け皿となる特殊法人に流れ、怪しげな報告書に数億円も払われていたり、イベントの費用に使われたりと、道路官僚の腐敗は止まるところを知らない。この問題を議論するときには、腐敗や不正に対する怒り、正義感が根底にあるべきである。そんな無駄をする金があるのなら、減税せよと首長は言うべきだ。

 知事の経験から、必要な道路を造りたいという事もよく分る。首長としてはコップ1杯の水はほしい。しかし、現状では、国はコップ1杯ではなく、タンクローリーを押し付け、しかもそのタンクローリーは水漏れだらけだ。

 いまや、霞ヶ関の官僚機構はミッションを見失っている。保身に汲々とし、金と権限を死守することを自らのミッションと考えている。

 以上が片山講演の要旨である。その後私と対談をした。

 私はまず、自治体首長の中で改革のエネルギーが低下し、たとえば知事会がむしろ官僚の応援団のようなことをするようになったのはなぜか尋ねた。片山氏は、そもそも「闘う知事会」などといわれたときでも、本当の改革派はほんの数人であり、知事のうち40人くらいはだまっていたと言う。片山氏や浅野、増田といった論客が退いて、元の木阿弥になっただけである。官僚支配の岩盤はそれほど強固なものだというわけである。

 では、官僚支配の岩盤をどうやって切り崩すかと突っ込んだところ、片山氏は案外楽観的な見解を示した。最近、参議院における与野党逆転のおかげで、霞ヶ関の思うとおりに物事が進まなくなった。日銀総裁人事、揮発油税などすべてそうである。暫定税率が期限切れになると国民生活が混乱すると官僚はさんざん脅かしたが、民間は柔軟に対応している。混乱しているのは官僚の頭のほうだ。岩盤を崩すためには、選挙以外に、市民住民の力を及ぼす仕組みを広げる必要があると片山氏は言う。

 今の霞ヶ関を見ていると、「裸の王様」という童話を思い出す。特定財源制度死守と叫ぶ自治体首長は、裸の王様を見て豪華な着物を着ていますねと世辞を言っているようなものである。官僚の権力とは、従属・服従する側が、「こう言わないと後でひどい目に会わされるから最初から調子を合わせておこう」と自主的、自発的に官僚の言うことに同調する点に発揮される。これに対して、片山氏は、知事時代に「王様は裸だ」と正直に言ったのである。王様は裸だといって何か不利益はあったのだろうか。

 片山氏によれば何もなかったのだそうである。物事を常にオープンにすれば、王様も理不尽なことをできなくなるというのが、片山県政の教訓である。

 この後、会場からも質問を受けた。

 民主党の若手道議会議員からは、質問内容を道庁職員に事前に伝えたところ、職員がそれを持って自民党の議員にご注進に及び、質問を盗用されたという経験が語られた。こうしたことは、片山氏が知事に就任する前の鳥取県議会でもあったそうである。地方議会の情報公開がまったく進んでいないことに、暗澹たる思いがした。

 また、公務員志望の学生から、霞が関の役人は国のために長時間働いているではないかという指摘があった。これに対して、片山氏は、良いことを正直にやれば時間はかからない、ごまかそう、隠そうとするから時間がかかるという答えがあり、納得したしだいである。

 ともあれ、片山講演会はきわめて時宜にかなったものであり、落城寸前の霞ヶ関を最後どうやって突き崩すかという実践的な問いに、多くのヒントを得た思いがする。 
                        文責  山口二郎

  

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2008年03月20日

リンクの追加:ホロト・プレス

 デモスノルテの写真記録に協力してくださっている野口隆史氏のHPです。  

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2008年03月20日

第6回セミナー:高橋伸彰氏講演

フォーラムin札幌時計台 第6回
高橋伸彰氏講演会

 「フォーラムin札幌時計台」第6回は、立命館大学国際関係学部教授の高橋伸彰氏を招いて、地域の経済課題とこれからの地域の形について議論した。

 まず、なぜ高橋氏に講演をお願いしたか、その経緯を説明しておきたい。高橋氏は北海道三笠市の生まれで、三笠と夕張で少年時代を過ごした。お父さんが北炭(北海道炭坑礦汽船:政商と言われた萩原吉太郎氏が率いた炭坑会社)の社員だった関係で、北海道の炭坑全盛期から斜陽時代をよく知っている。高橋氏のそのような生い立ちは、氏の経済理論にも大きな影響を与えているように思える。近年、経済学界では市場万能、競争主義万歳の新自由主義者が跋扈しているが、高橋氏は著書『優しい経済学』(筑摩新書)のタイトルから分かるように、平等や弱者の支援という価値を重視する。小泉政権以来の新自由主義的構造改革の弊害が明らかになった今こそ、高橋氏の出番だと考えて、お招きした次第である。以下、講演の概要を紹介する。

 高橋氏は、夕張市の破綻から始めて、今の世界が直面する問題を見るという、北海道人にとっては大変興味深いパースペクティブを提示した。炭坑全盛時代の夕張では、住所によって社内の序列が明確に色分けされていた。坑夫や下請け会社の社員は粗末な住宅に住んでいたが、それでも水道、電気、病院等のライフラインや娯楽はすべて会社持ちで、体一つで生活できた。こうした労務管理のあり方を日本的家族経営と見る人もいるが、実際は資本の論理にしたがって労働者をよそへ逃げられないように囲い込んだと言う方が正確である。

 1960年代に入ってからは、エネルギー革命の趨勢の中で石炭は斜陽産業となった。しかし、北炭は本来閉山を円滑に進めるための公的補助金を、新坑の開発につぎ込み、延命を図った。そして、1981年夕張新坑の事故を引き起こし、解体してしまった。

 それに伴い、夕張市が北炭の設けた各種のインフラ(水道、病院、学校、住宅など)を引き継ぐことになり、膨大な財政支出を強いられた。夕張市が抱えた債務六百数十億円のうち、その種の費用が五百億円あまりであり、中田鉄治元市長が進めた「無謀」な観光開発に伴う支出は百億円強であった。夕張市の財政破綻の本当の原因は、炭坑会社のインフラに市や道がただ乗りしていたことが表に出たことにほかならない。

 夕張の財政破綻を自己責任と捉える大メディアや政府の論調は、小泉構造改革の精神構造を反映している。それ以前は、「窮鼠猫を噛む」、つまり弱い者をあまり追いつめると社会が持たなくなるという、ある種フィクションかも知れない相互了解であった。しかし、小泉改革は、窮鼠を追いつめると謝るという、強者の本音を剥き出しにした。また、窮鼠に同情をかけるより、追いつめ、謝らせた方が、効率的、合理的である。かくして、改革の名の下に、弱者を追いつめ、強者の自由を全面展開する政策が採用された。

 この点は、文化と文明という二つの観念の対立とも重なり合う。文化とは、伝統、慣習、しきたり、相互了解などの束であり、理由のないもの、不合理なものである。「窮鼠猫を噛む」という弱者への配慮も、文化である。そうした伝統や慣習を共有することによって人間は結びつく。文明とは合理的なものである。楽をする、儲けるなどの単純な目標をどこまでも追求する論理、態度が文明である。ヨーロッパは文化の地であり、アメリカは文明の固まりである。また、都市も文明の固まりである。小泉改革とは、日本の文化を破壊し、文明を注入する企てであった。

 しかし、いま文明だけで日本や世界が生きていけるかどうかが問われている。資本の論理にしたがって、環境を破壊し、格差を広げることがいつまで続くのだろうか。

 格差に関して言えば、20世紀後半に資本主義と随伴していた福祉国家の解体が進行しており、これを食い止めるのは容易ではない。人間が他者に共感、同情する慈愛心は、コミュニティの崩壊、欲望の追求の全面展開の前に、衰弱する一方である。また、かつての社会保険の仕組みを支えた人々の仲間意識も、雇用の変化やコミュニティの崩壊によって、希薄化する一方である。労働力の再生産のために労働者に最小限の配慮をするという資本の論理も、中国やインドの安価な労働力を使えばよいという環境では大きく変化した。

 しかし、中国やインドにしても、これから経済成長を続けて、一人あたりの国民所得が一万ドルを超えれば、日本や他の先進国と同様、経済成長と個人の豊かさが乖離するという段階に入るであろう。つまり、統計上富が増えても、それが一握りの層に偏在し、人間の生活には響かなくなるということである。

 したがって、成長や富の増加を至上命題とする資本主義そのものにオルタナティブを生み出すことと、福祉国家のオルタナティブを造り出すことは、これからの世界にとって車の両輪のような課題となる。
 
 講演に引き続き、私が、最近行った世論調査の結果を紹介しながら、構造改革に対する国民の評価や、望ましい社会経済システムについて報告を行った(この調査の詳細は、先アドレスを参照してください。http://www.csdemocracy.com/opendata/200801.pdf

 結論を要約していえば、国民は構造改革の帰結について、格差拡大、公共サービスの劣化、拝金主義の蔓延など、否定的な評価を下している。また、自らの生活の将来像については、七割が悲観的であり、それに基づいて政策には社会保障の再建を最優先で求めている。また、アメリカ的な競争社会よりも、北欧型の福祉社会を求めている。

 したがって、今後の政治においては、構造改革の弊害をふまえ、その是正を求めている勢力が支持を集めるはずである。平等や人間の尊厳の回復を求めるという点では、有利な政治的環境が生まれるはずだという、私にしては珍しく楽観的な議論を提示した。
  

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2008年03月05日

第5回セミナー:金子勝氏講演

フォーラムin札幌時計台 第2シリーズ
第5回 金子勝 講演会

 「フォーラムin札幌時計台」第2シリーズが、3月4日から始まった。そのトップバッターとして、金子勝先生にご登場いただいた。金子さんは、新自由主義的構造改革の虚妄を一貫して批判してきた。小泉構造改革が最終的な帰結を明らかにした今、今回の講演は、金子さんの「予言」がいかに正確であったかを、改めて思い起こす機会となった。

 金子さんの来訪に符合するように、円高・ドル安、株価の低落が進んだ。このような経済の危機的状況について、金子さんは「アメリカ主導のグローバリズム」の限界が露呈していると捉える。戦後の世界秩序を構成した柱として、軍事・安全保障、エネルギー、通貨・金融の3つが重要である。20世紀後半、アメリカは圧倒的な軍事力、石油の支配、基軸通貨としてのドルという形で、3つの柱を押さえ、それがアメリカのヘゲモニーを支えてきた。しかし、今や、イラク戦争の失敗、石油価格の高騰、住宅バブル崩壊から始まったドルの下落という三重苦が、アメリカのヘゲモニーを掘り崩している。

 したがって、アメリカのヘゲモニーに便乗して日本の政策転換を図った構造改革が破綻するのも、当然の帰結である。構造改革の失敗は、次の3つの点で特に明確に現れている。

 第1に、日本経済には成長を引っ張る新たな産業セクターが生まれていない。確かに小泉政権後半から景気拡大が続いてはいるが、これは自動車や旧来の素材産業の輸出によってもたらされているにすぎない。構造改革は、日本経済の非効率的部門から成長部門への資本、労働力のシフトを叫んでいたが、それはまったく成功していない。


 第2に、日本はグローバルな競争の中で生き抜くための国家戦略を放棄している。今の時代、グローバルな競争を制するのは、デファクト・スタンダード(パソコンのOS、DVDの規格など生産、情報通信等の基準、規格のこと)を規定するものである。どの国も国力を上げてデファクト・スタンダードを支配するためにしのぎを削っている。しかし、日本は小さな政府の名の下に、そのような経済戦略を放棄している。靖国問題で中国との関係を悪化させているうちに、中国における新幹線建設をフランスに取られたことなど、その典型である。

 第3に、高齢化や社会の成熟にまったく対応できていない。成熟段階に入った先進国はどこも教育投資に重点を置き、人材の質を向上させることに必死である。しかし、日本は闇雲に歳出削減を進めるだけで、人間の質が劣化することを放置している。産業においては、高い付加価値を生み出す独創性を造り出すのではなく、中国やベトナムと同じレベルであてどもないコスト削減競争にはまりこんでいく。




 このように、構造改革の失敗、破綻は明らかである。繰り返すが、景気回復は輸出の伸びのおかげであり、改革とは無関係である。むしろ、輸出依存による景気回復は40年前から繰り返されてきたパターンであり、まったく進歩がない。アメリカ市場が冷え込んだらまたしても経済は停滞する。内需主導の経済成長の構造を造り出すことこそ構造改革の課題のはずであったが、むしろ内需拡大に逆行するような政策を改革として賞賛してきたのが日本のメディアである。

 小泉改革を別の側面から見れば、改革は金融緩和と構造改革の2つの柱からなっていた。金融緩和と低金利政策は、円安をもたらし、輸出を促進した。輸出で儲けられるグローバルな製造業だけが好景気の恩恵に浴している。他方、構造改革は市場を自由にするという目標の下、規制緩和という形を取り、小さな政府という目標の下歳出削減という形を取った。特に労働の世界における規制緩和は非正規労働の増加と賃金の低下をもたらし、景気回復の果実が労働者に配分されるメカニズムを破壊した。また、歳出削減では社会保障と地方交付税という大口の歳出が標的にされ、これが格差貧困問題の深刻化と地方の衰弱をもたらした。

 構造改革がもたらした弊害を批判する時、格差がけしからんという正義感に基づく批判だけではなく、格差社会が経済の活性化に逆行するという観点も必要である。構造改革、小さな政府は、日本の経済や社会の持続可能性を奪っているのである。

 今こそ政策転換の時である。アメリカの住宅バブルが崩壊した今、もはやアメリカ頼みの景気回復は不可能である。輸出産業の業績が悪化することは不可避である。

 むしろ、日本の中で環境やエネルギーの分野で新しい産業を作りだしていくことこそ求められている。また、地方においては農業を立て直すことが急務である。我々は日本や世界が直面している深刻な問題、リスクを直視する必要がある。そして、最悪の事態を避けるために行動を起こさなければならない。

 以上が金子さんの講演の概要である。特に印象に残ったのは、政策の効果について事実に基づいて議論、検証する必要を金子さんが力説していた点である。小泉時代には、民主主義の仕組みがまったく作動せず、「信じるものは救われる」といわんばかりの政策論議がまかり通った。また、誤った政策を唱道したものが責任を取ることもない。まともな政策を造り出すためにも民主主義が必要だという金子さんのメッセージは、フォーラムの第2シリーズ全体にとっても的確な問題提起となったと思う。  

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2007年11月26日

第4回セミナー:佐藤優氏講演

フォーラムin札幌時計台 第4回記録

 フォーラムin札幌時計台、第4回セミナーは、ゲストスピーカーに佐藤優氏を招いて、11月21日に開催された。佐藤氏は現在数多くの新聞、雑誌で連載を抱え、毎日が締め切りの状態だそうで、本当に多忙な中札幌へきてくれた。

 佐藤氏の話は大きく4つの論点から構成されていた。

 第一は、政党政治の現状、特に大連立騒動以来の迷走について。昔から、「綸言汗の如し」という言葉があり、為政者の発言は汗と同じで一度外に出たらもう取り返しはつかないということを、為政者は肝に銘じてきたはずである。安倍晋三前首相の政権投げ出しといい、小沢一郎氏の代表辞任騒動といい、政治家の出処進退がいい加減になっている。この点について、外国のメディアや政治ウォッチャーは、神秘の国日本という百年前のステレオタイプで現状を見ることが意味を持つと言っている。ルース・ベネティクトの『菊と刀』が再び読まれている。

 政治の世界は論理の世界である。大連立とは、戦争など大きな危機の時にしかありえない。そもそも政党(political party)とは、部分という言葉から派生している。つまり、政党は社会の中のある部分の利益や主張を代表する。政党が自ら代表している部分を捨て、大連立という全体に融合することは、まさに全体主義である。自民党と民主党が事毎に対決するのは、実は両者が違うからではなく、似ているからである。

 小沢民主党が参議院選挙の前ごろから、社会民主主義的なアジェンダを打ち出したことに、佐藤氏も期待していた。小泉時代の新自由主義の潮流を食い止めるために、民主党が社会民主主義の理念を打ち立てることは日本にとって必要である。しかし、小沢一郎にとって、社会民主主義も所詮は方便であり、思想ではなかった。思想がないからこそ、大連立という誘いを受けてぐらつくのである。今回の民主党の危機は、政治における思想の必要性を改めて教えた。

 第二は、沖縄と北海道という地方から見た日本の政治。歴史教科書の検定によって、太平洋戦争末期の沖縄における集団自決について軍の関与はなかったという記述に変更させた件が住民の大きな怒りを集めた。そもそも軍が住民に手榴弾を渡したこと自体、いざとなれば自決せよという指示を含んでいたと解するのが当然であって、文書による命令の有無を議論すること自体無意味である。佐藤氏の母親は、沖縄本島で戦争を経験したので、その点については生き証人の一人である。沖縄では、軍の命令による集団自決という事実を捻じ曲げられたことに対する怒りが沸騰し、ある種のナショナリズムが高まっている。それは、沖縄独立論にまでつながる可能性もある。

 しかし、沖縄にとって独立は得策ではないし、日本にとっても望ましくない。沖縄という異質な文化や伝統を持った地域が存在することによって、日本という国は強くなる。日本にとって沖縄は必要である。

 小泉時代の新自由主義は、個人主義という観念と、人間の流動性をセットにして地域政策を組み替えた。人間は経済的機会を求めて動くべきだという考えで、地域を捉え変えた。そうすると、沖縄や北海道などの偏狭にへばりついている人は、好きこのんでそこにいる人々であり、様々なハンディキャップがあっても援助する必要はないという発想にいたる。つまり、新自由主義を国土に当てはめれば、仲間というリアリティがなくなるのである。これがさらに進めば、国家は内側から解体する。今はそのような危機が迫っている。

 その点で、北海道はどのような状況だろうか。

 第三は、アメリカの影について。新自由主義的改革がアメリカの発想であり、アメリカの国益にかなうものであったことは明白である。アメリカの教育において、歴史といえばアメリカ史であり、アメリカ史が世界史だと考えられている。世界はアメリカによって包摂されるというのがアメリカの発想である。こうしたアメリカと日本がどう向き合うかという問いは、日本が自立した国であるためには不可欠な重要問題である。

 日本の政治スキャンダルについて、しばしばアメリカの影が噂される。アメリカ離れを起こし、独自の国益を追求しようとした政治家はアメリカによって追い落とされるという話である。小沢が大連立に乗ろうとしたのもアメリカの影だという話がある。下手をすればこれは陰謀論になるが、実際、アメリカという存在は大きい。アメリカが直接日本政府の中枢部に命令を下したり、具体的な要求を突きつけたりということはない。しかし、日本の政治家や外交官がアメリカの意図を忖度して行動したり、アメリカの威光を笠に着て自分たちの組織的利益を追求したりということは実際によくある話である。その点で、日本は国際社会のプレーヤーとして認知されていない。自主か従属かという根源的な問いを我々はもう一度根本から考えなければならない。

 第四は、日本政治における思想的基軸についてである。現代政治の思想として、大きく、新自由主義、社会民主主義、保守主義の3つがある。日本では、小泉時代の新自由主義に対する反省の念が広がっている。その意味では、社会民主主義の出番である。福田政権も「自立と共生」というスローガンを唱え、構造改革へ一定の修正を加えることを明らかにしている。しかし、具体的なプログラムはない。

 社会の現実において、19世紀にエンゲルスが描いたような貧困問題が叢生している。こうした問題は、個人の力ではどうすることもできない構造問題であり、政治の力で解決するしかない。そうした政治を作り出す上で、知識人の役割が極めて大きいのである。

 以上が佐藤氏の講演要旨である。私自身、社会民主主義の立場から新自由主義を批判し、平等という価値を増進するために政策提言もしている。その中では、保守との連携も必要であると考えている。佐藤氏によれば、保守とは、フランス革命に対抗したエドマンド・バークのように、左派、社会民主主義の思想が体系的に展開したときこそ、保守が出てくる。今の日本ではまさに社会民主主義の思想が必要であると佐藤氏は強調した。私にとっては実に重たい課題である。

 沖縄の地域主義の話も、北海道にとっては実に参考になる。非効率的だと切り捨てられるまま卑屈になるのではなく、豊かな日本にとって北海道が必要だという自己主張こそが必要となる。その点での議論をさらに深めていきたい。  

Posted by jyam at 13:09Comments(0)TrackBack(0)講演要旨

2007年11月19日

第3回セミナー:香山リカ氏講演

フォーラムin札幌時計台 第3回記録

 フォーラムin札幌時計台第3回講演会は、香山リカ氏を招いて、11月14日に開催された。精神分析医としての香山氏は、この秋多忙だったそうだ。朝青龍と安倍晋三元首相という二人の著名人(?)が、相次いで心の病から職場放棄(?)し、これについて専門的な分析を求められたとのこと。心の調子を乱すプレッシャーやストレスの多い現代ならではの話である。

 香山氏は、近著『日本人はなぜ劣化したか』(講談社現代新書)に沿いながら、現代日本の社会病理について分析することから話を始めた。このところ、公共的な空間で暴力を振るう事件、会社や役所などでクレーマーと呼ばれる激しい苦情申し立て、学校の先生に理不尽な要求を突きつけるモンスターペアレントと呼ばれる親など、自己中心主義的な人間が周囲に迷惑をかけるという事例が増えている。いわゆる「キレル」人々の増加という現象である。

 これは、従来の権威主義やパターナリズムの崩壊という社会変化の現われという一面を持っている。昔は、医者は絶対的に偉く、患者は従属する存在であった。学校では、先生は絶対的に偉く、生徒は従属する存在であった。役所は人々を支配する権力機関であった。こうした権威主義やパターナリズムは打倒の対象であった。

 サービスを供給する側と消費する側が対等な人間関係を持つことが理想であるが、対等な関係というのが難しい。特に最近は新自由主義的な市場主義、競争主義の考えが普及し、教育や医療など各種のサービスが単なる商品として捉えられるようになった。そうなると、お金を出してサービスを購入している側が偉いということになり、自己中心的なクレームに際限がなくなる。目の前のちょっとした利益を求める、あるいは不利益を忌避することだけに関心を奪われ、行動にブレーキが利かなくなるのが、一連の現象の構図である。

 自己中心的なクレーマーや暴走老人をバッシングするだけでは意味がない。また、権威主義やパターナリズムの昔に戻ることもできない。対等な人間関係を組み立てなおすことが唯一の解決策である。また、他者の存在を視野に入れた、正しい自己主張の仕方を身につけることしか、答えはない。

 他者の存在が視野に入らないままの自己主張という問題は、現代社会における世論のあり方にも関連する。人々が相互に共感したり連帯したりして個人の声が集積されるというルートをたどるのではなく、自己中心的な主張が機械的に増幅されて大声が社会を支配するようになる。特に、ネット空間でこのような現象が起こりやすい。ウェブの炎上の際に起こるサイバーカスケードという現象がその例である。本来の世論とは、他者の存在を視野に入れた自己主張を集積してできるもののはずだが、世論を担う個人が存在していない。

 素朴な自己中心主義、刹那的な自己利益の追求という現象と一見対照的に見えるが、超越的な権威や価値に帰依したいという傾向も最近目立っている。出版の世界では、何とかの品格というタイトルがはやっている。品格という権威に安易にすがりたい読者がたくさんいるということであろう。また、スピリチュアルや霊、前世、宇宙など超越的なものに対する憧れもますます広がりつつある。

 実は、自己中心主義と超越への希求は、同じ問題のコインの両面である。このところ、成果主義、機能主義が蔓延して、個人個人がますます競争に駆り立てられ、目に見える成果を挙げることを求められるようになった。そのような圧力の中で、一握りの成功者を除いて、人間は生きる意味を見つけにくくなっている。そうした圧力を処理するために、一つの可能性として、外部に、自分より弱いものを見つけ、そこにはけ口を求めて爆発するという方法がある。これが自己中心的なクレーマーの根源である。他方、弱い自分をそのまま肯定してくれる超越的な権威に依存するという方法もある。これがスピリチュアルブームの根源である。

 だとすると、冷静な個人が相互に了解可能な議論を重ねて行って、共通の解決策に到達するという民主政治の実践は、きわめて困難となる。今年夏の参議院選挙に現れた民意も、決して楽観的に評価することはできないだろう。

 以上が香山氏の講演の要旨である。

 話の前半を聞いて、自立した個人の確立という戦後啓蒙のテーマがゆがんだ形で実現したことを痛感した。権威やパターナリズムの解体は戦後啓蒙の課題でもあったが、その後に出てくる個人の姿として、決して今日のような自己中心主義を予想していたわけではなかったはずである。

 自己中心主義と正当な権利主張を識別することは、理屈の上ではそう難しくない。単なる身勝手は英語でprivilegeという。日本語では特権である。正当な主張は、英語でrightといい、これが権利である。あなたと同じ主張を他者がすることを許せるならば、その主張はライトである。ある人の主張が同じような問題を抱えているほかの人にも役立つという関係が成り立つ。ただし、香山氏も言うように、他者が自分と同じことを行ったらどうなるかを考えるためには、想像力が必要である。現代人には想像力がかけていると香山氏は言いたいのであろう。

 成果主義、機能主義の趨勢の中で、個人がより弱いものに対する居丈高な主張と、超越的な権威に対する帰依という、相反する二つの方向に引き裂かれているという指摘には、大いに共感できる。個人の弱さを互いに認めつつ、そうした個人が共感を持ちながら、了解可能な主張を積み上げるという方向を模索していくしかないと感じた。  

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2007年08月29日

リンク紹介

 フォーラム神保町

 11月に講演して頂く佐藤優氏をはじめ、魚住昭氏、宮崎学氏らによる「メディア勉強会のためのトポス」です。本フォーラム開設に当たっても多大な影響を受けています。本サイトと併せてご参照ください。  

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2007年08月17日

第2回セミナー:山口二郎「岐路に立つ戦後日本」

フォーラムin札幌時計台 第2回セミナー
2007年8月15日

 8月14日に引き続き、15日に第2回セミナーを開催した。当日券を求めて来場した方が予想以上に多く、記録的な猛暑の中で熱心に聴講してくれた皆様に、まずはお礼申し上げたい。8月15日に私が講義をしたのは、会場の都合によるもので、特別な意図はなかったが、ちょうど終戦記念日に話をするのだから、戦争の意味づけや戦後史を振り返ることを通して、現代政治の課題について考えるという話をした。以下は、私の講演の要約である。

 まず、参議院選挙の結果について、憲法改正や戦後レジームからの脱却という安倍晋三首相の目論見が完全に否定されたという点で、大きな意義があった。もちろん、自民党を拒否し、民主党を選択した民意の中身については吟味する必要があり、手放しで楽観できない。また、明文改憲の可能性は当分遠のいたが、米軍再編との関連で憲法や戦後体制を実質的に掘り崩す動きが続いている。その意味では、戦後レジームに対する挑戦は続いている。これをどのような意味で継承し、どの点を変革するか、我々は考えなければならない。

 戦後レジームをどう構築するかは、戦争をどう意味づけるかと密接不可分の問題である。戦争の意味づけや歴史観を日本人が共有できていないところに、政治の混迷の原因があるということもできる。歴史認識とは、歴史的事実をつなぎ合わせて作り出されるものであり、そこ個人の主観がどうしても反映される。どのような歴史認識を持つかは自由だとは言うものの、より他者にとって説得的で共感できる認識を持つべきだと私は考える。

 私たちのように戦後を生きる人間が戦争の意味づけを考える時、その時代を生きた人々、特に知識人の書き残したものを手がかりにするしかない。私は、永井荷風、石橋湛山などの自由主義者の論説に共感する。やはり満州事変以後の戦争は、誤った戦争であると判断しなければならない。戦争が誤ったものであるならば、当然、敗戦は解放として祝福されることになる。実際、湛山も荷風も論理は違っても、敗戦を祝っている。戦後の憲法が占領軍によって「押しつけ」られたものであることは明らかであるが、しかし同時に、当時の日本のエリートが用意した憲法案よりもはるかにすばらしい憲法を獲得したことも、国民の常識であった。この間の事情は、引用した資料を参照していただきたい。

 しかし、戦後レジームを作る上で、非業の死を遂げた人々をどう弔うか、悼むかという問題も避けて通れない。吉田満が『戦艦大和ノ最期』で書いたように、精神主義や自己満足で戦争の泥沼にはまった日本に対して、多くの戦死者は疑問を持ち、日本人を目覚めさせるために死ぬという意味づけをしていった。戦後の解放を祝福するものは、そのための犠牲についても思いをいたす必要がある。また、敗戦直後に中野重治が書いたような、戦争の犠牲者に対する共感を保ちつつ、戦争責任を追及するという論理を、その後の進歩派が十分確立できなかったことは痛恨事であった。

 戦後史を振り返れば、敗戦から1960年までの約15年間は、戦後レジームの形成過程であった。そこでは、敗戦を解放と受け止め、戦後憲法の理想に純粋に忠実であろうとした革新勢力と、敗戦を屈辱と受け止め、戦前への回帰を追求した保守派が対決していた。両者の対決は、60年安保で頂点に達した。その結果は痛み分けであった。憲法改正を断念し、岸信介首相が失意のうちに退陣したという点では、革新側が勝利した。しかし、自衛隊と安保条約が定着したという意味では、保守派が勝利した。

 60年代以降、両者の主張を折衷する形で戦後レジームが確立した。その柱は、外に対するそれなりの平和国家路線と内における繁栄と平等であった。池田勇人以降の自民党の指導者は憲法9条をそれなりに尊重し、自衛隊と安保条約を9条の枠組みの中に収めてきた。自衛のための実力組織は9条に反しないという論理は、純粋護憲派から見れば詭弁かも知れないが、専守防衛の理念の下で日本は攻撃的兵器を持たず、海外派兵もしないという平和国家路線を守ってきた。必要最小限の自衛力では対処できない事態には日米安保で対処するという論理で、安保条約を9条と整合させた。また、経済成長を政策の最優先課題に据え、豊かさを追求し、成長の果実をそれなりに均等に分配していたことも、戦後レジームの特徴であった。

 このような意味で、戦後日本の歩みは平和と豊かさを実現した成功物語として描くことが可能である。もちろん、そこにはいくつかの大きな欠落があった。1つは、昨日の辛さんの話にあったように、そもそも戦後レジームから排除されたマイノリティの存在である。豊かさや平和と無縁であった人々の存在をどうとらえるかは、我々にとって避けて通れない課題である。

 第2は、抱え込み社会の歪みである。日本の場合、弱者保護や平等化を公平なルールを通して行うのではなく、パターナリズムの秩序を通して行ってきた。官尊民卑、中央集権、日本的経営における労働者の人格的服従、女性差別など、社会の様々な側面で上下関係を設定するのが日本の特徴であった。そうした上下関係に従順に服従すると、ある程度の平等な分配に与れたが、そうした関係を拒否すると厳しい抑圧に会うという逆の側面も存在した。多様な人間をそれぞれ自立した主体として尊重するという社会の気風を造り出すことはできなかった。だから、戦後レジームを手放しで賞賛することはできない。

 こうした戦後レジームが動揺し始めたのは、バブルの崩壊とグローバリゼーションという大きな変化に襲われた1990年代からであった。

 冷戦の終わり、テロの衝撃などによって、アメリカは軍事力を前面に出して自国の権益を追求するようになった。もはや、自衛隊は専守防衛という理念を失い、日米安保は日本の安全を確保するための枠組みではなくなった。アメリカによる一国主義的な軍事行動にどう対応するか、厳しく問われているのが現状である。

 また、経済面でも戦後レジームは破綻しつつある。雇用の安定、地域経済の維持など、戦後レジームがもたらした恩恵は、次第に一部の世代、一部の階層の人々だけが持つ既得権と化しつつある。バブル崩壊後に社会に出たいわゆるロストジェネレーションにとっては、戦後レジームの安定は無縁のものである。こうした不満感は、比較的若い世代が小泉改革を支持した背景要因である。小泉改革は、パターナリズムの秩序を打破し、既得権を奪うというメッセージを持ったからであった。

 ではここから何処へ向かうのか。我々が、ポスト戦後の日本にどのような社会を造り出したいと考えるのか、その点が問われている。

 これからどこへ行くかという議論の中身については、第2部の中島岳志氏との対話の紹介と絡めて、記すことにしたい。中島氏は、気鋭のインド政治研究者で、1年ほど前から北大の准教授を務めている。つい最近は、平凡社から『パール判事』という本を上梓した。この本は、東京裁判の判事を務め、判事の中で唯一A級戦犯の被告の無罪を主張したパールの評伝である。

 中島氏は、戦争の意味づけや戦争責任について論じる前に、参院選に現れた民意の動向についての問題提起をした。その要点は次の通りである。

 昨年の8月15日、当時の小泉首相が靖国神社に参拝した時、世論調査によれば参拝に賛成した国民が、参拝前から参拝後にかけて4割も増えた。それだけ多くの日本人が自分でものを考えることをせずに、政治家の行動に付和雷同していることの表れだ。また、テレビ番組の捏造をめぐる世論の動向を見ても、自分のおっちょこちょいを棚に上げて他者を罰するという動きが目立つ。このように、付和雷同する人や、何か誰かが悪いことがはっきりと示された途端にそれに対するバッシングに参加する人こそ、ファシズムの担い手になるのだろう。その意味で、日本の世論状況は楽観できない。参議院選挙で自民党を任せた国民の世論なるものも、それほど確かなものではないだろう。


 続けて、彼はパール判事の評伝を書いた意図について説明してくれた。

 パールはA級戦犯の無罪を唯1人主張したことで、日本の右派はこれを自分たちの同類のように高く評価している。しかし、パールは日本の植民地支配や侵略を厳しく批判しており、事後法によって遡及的にA級戦犯を裁こうとした東京裁判を認めなかっただけである。いわば、法的には無罪であっても、道義的には罪が大きいと主張していた。今月、安倍首相がインドを訪問する際に、パールの遺族に面会すると報じられている。安倍は、8月15日に靖国神社への参拝を見送った代わりに、右派のご機嫌を取るためにパールの遺族に会おうとしているが、不勉強も甚だしい。パールはガンディーの絶対平和主義を受け継ぎ、日本の平和憲法を強く擁護していた。また、外交路線としてもアメリカに追従するのではなく、独自の平和路線を歩むべきだと主張していたのである。

 戦後レジームの継承、発展を考える時、特に対外政策に関しては、憲法9条を戦略的に使うという知恵が必要になるという点では、私も中島氏も同じである。現在の9条改正論は、単なるアメリカの圧力の反映にすぎない。集団的自衛権の解禁論議も同じである。このままの状態で9条を改正すれば、日本はますます国家としての主体性を失うに違いない。それは、ナショナリズムを標榜する右派のすべき事であろうか。アメリカと距離を置くことは簡単ではないが、イラク戦争の検証、アジアとの対話などを通して、日本の生き方に関する別の選択肢を少しずつふくらませることが必要となるであろう。

 国内政策に関して言えば、先の参院選に現れた民意のエネルギーを戦後レジームの再建に向け、建設的に導くことが必要となる。年金に対する不信が政治への関心を呼び覚ましたことには大きな意味があるが、単に既得権としての年金を守るというレベルに議論が終始していては、政治の変革にはつながらない。昨日の辛さんの話にあったように、多様な個人をありのままに尊重しつつ、そのような個人が相互に連帯するような社会を造り出すことこそ、戦後レジームの再建の道である。

 以下、当日配布のレジュメ。  続きを読む

Posted by jyam at 15:40Comments(0)TrackBack(0)講演要旨

2007年08月16日

第1回セミナー:辛淑玉「マイノリティから見た戦後日本の欠落」

フォーラムin札幌時計台 第1回セミナー 2007年8月14日

 辛淑玉  マイノリティから見た戦後日本の欠落

 フォーラムin札幌時計台の第1シリーズは、「瀬戸際の戦後日本」という全体テーマの下でプログラムを組んだ。辛淑玉さんには、その冒頭を飾るにふさわしい刺激的な話をしていただいた。以下、辛さんの話を私なりに要約させていただく。




 小泉政権登場以前の戦後日本について、平和や経済的な平等を達成したという評価があるが、マイノリティにとって平和や平等は無縁であった。在日韓国・朝鮮人は劣悪な経済的環境の中で貧乏な生活を強いられていた。沖縄には多くの米軍基地が存在して米兵による殺人やレイプが相次いだ。沖縄に戦後の平和があったのだろうか。だから、マイノリティの側から見れば、戦後日本の「成功」や戦後民主主義が嘘くさく見えてしまう。


 小泉時代をくぐって、日本社会のマジョリティの安定や豊かさを支えた様々な仕組みが崩れ落ち、多くの日本人はあわて始めた。非正規雇用の増加に伴う若い世代の生活苦は、いわば日本人の「在日朝鮮人化」とでも言うべき現象だ。もちろん、経営者が労働力を使い捨てにすることは好ましいことではないが、そうした人間をモノ扱いする働き方はずっと前から在日朝鮮人が強いられてきたものだということを、どれだけの日本人が理解しているのだろう。

 私(辛)は今まで、護憲や平和の運動に参加してきたし、そうした理念を追求する政治家や政党を応援してきた。しかし、平和や豊かさの埒外に置かれてきた私に、平和や憲法を守る運動の手伝いをしてほしいという護憲派、進歩派の感覚も少しおかしいのではないかと最近は考えるようになった。



 多くの日本人は、自らの足元が崩れ始めた今、いっそうヒステリックに現状に対する不安や欲求不満のはけ口を求めている。より弱い者、マジョリティに対する敵とみなされた者に対する攻撃がその現れである。イラク人質事件の時に吹き荒れた「自己責任」という名の下の被害者やその家族への攻撃が典型例だ。香田証生さんがイラクで捕らわれた時には、救うに値しない命、殺されて当然の命という言葉を公言した。それほどまでに、日本社会には人間を蔑視し、差別する雰囲気が蔓延している。柳沢厚生労働大臣の「女性は生む機械」という発言は、そうした感覚を正直に表現したにすぎない。

 在日に生まれながら、日本人に愛されたいと願い、日本人になったが、志半ばで死んだ2人の人物がいた。1人は、金優作(日本名、松田優作)、もう1人は朴景在(日本名、新井将敬)である。金は石原裕次郎にあこがれ、映画俳優となり、日本人に愛されることを願ったが、若くして病魔に襲われた。朴は、大蔵官僚から政治家に転身したが、当時の中選挙区制の下で同じ選挙区から選ばれていた石原慎太郎に敵視、蔑視され、石原を恐れていた。石原の秘書が新井の選挙ポスターに「北朝鮮から帰化」という黒いシールを貼った。また、「もし日本と朝鮮が戦争をしたらおまえはどちらに忠誠心を持つのだ」と石原に詰問されたこともある。朴は、証券会社から利益供与を受けていたという疑惑をもたれ、自殺に追い込まれた。

 日本にいるすべての人が、国籍や性別に関係なく、そのままで尊重されるような社会はいつになったらできるのだろうか。

 以上の要約の文責はすべて筆者(山口)にある。この要約を辛さんの発言として引用することは差し控えていただきたい。

 講演に引き続き、私と辛さんが対論した。先の参議院選挙における自民党の大敗、民主党の躍進で浮かれている私に、辛さんは今の野党は信用できるのか、野党を支持した無党派層なるものを信用できるのかという厳しいパンチを浴びせた。私は、民主党の中には変な右翼もいるが、安倍政権の憲法改正や強者優先の経済政策に対決するという基本姿勢で選挙に臨み、勝利したことの意味は大きいと反論した。辛さんは、さらに、戦後レジームの中でマジョリティを保護してきた政策や仕組みがどんどん崩れ落ち、マジョリティが不安におののくようになった時、彼・彼女らはいっそう弱い者やマイノリティを攻撃し、束の間の慰安を求めるようになるのではないか、日本社会がアメリカ以上に閉塞し、固定化された不平等社会になる危険性があるのではないかと問いかけた。また、差別は快楽であり、マジョリティはこれからもそうした快楽に身をゆだねるのではないかとも述べた。私は、そうした悪いシナリオも実現する可能性があるが、逆に、自らの弱さやもろさを認識することによって、人間の尊厳に目覚め、同じ人間同士助け合おうという社会的連帯が生まれる可能性に賭けるしかないと主張した。  

Posted by jyam at 17:50Comments(0)TrackBack(0)講演要旨

2007年08月09日

北海道新聞にて紹介

 8月7日付の北海道新聞夕刊(文化面=9面)にて、デモスノルテを紹介して頂きました。  

Posted by jyam at 04:28Comments(0)TrackBack(0)

2007年07月26日

デモスノルテを語る

 山口二郎がデモスノルテを語りました。


デモスノルテを語る1


デモスノルテを語る2  

Posted by jyam at 23:56Comments(0)TrackBack(0)

2007年07月10日

第1シリーズのプログラム

フォーラム in 札幌時計台
~政治を語ろう 未来を創ろう~

《1st series》瀬戸際の戦後日本~ここから何処へ向かうのか?

第1回2007 8/14(火)
講 師:辛 淑玉 (Shin Sugok)

第2回8/15 (水)
講 師:山口 二郎 (Yamaguchi Jiro)
ゲスト:中島 岳志 (Nakajima Takeshi)

第3回11/14(水)
講 師:香山 リカ (Kayama Rika)

第4回11/20(火)
講 師:佐藤 優 (Sato Masaru)

☆第1回~第4回 コーディネーター: 山口 二郎

●時 間/いずれの回も 18:15 開場  18:30 開演

●会 場/札幌時計台ホール   
     札幌市中央区北1条西2丁目 TEL:011-231-0838

●入場料/1,000円 (各回につき)
※チケット取り扱い:北大生協会館店サービスカウンター
          くすみ書房(琴似2-7-2-5)
          大丸プレイガイド(南1西3 大丸藤井セントラル内)    
《 2007年7月20日よりチケット発売開始 》

●主 催/デモスノルテ

●お問合せ/TEL: 011-706-3140 (北海道大学法学部 山口研究室)  

Posted by jyam at 14:42Comments(2)TrackBack(0)お知らせ